紅茶を

わたしはこれ以上もうなにも持ちたくないし捨てたくもない。
なんか死にてえきもちと米津がうたう、ほんとうにそうなんだ。
たとえばあのとき、彼を選んで生き方をかえたとして、
いま幸せかどうかなんて誰にもわからず、
そして別にいま不幸せなわけなんかでは決してなくて、
ずっと寂しいわけでもずっと楽しいわけでもないんだ。

具合が悪い月曜日に、自分で淹れたお茶を飲んで、冷えた手を自分のくびで温めた。
そのことを哀れと思うのは勝手だけど、たとえば、たとえ結婚していたとしても、
その相手がいまこのとき、そばにいてお茶を淹れてくれるとも、
手を握ってくれるとも限らないんだ。
それでも、それでもいっしょに生きていくことに幸せを喜びを感じる時間はあるのだろうけれど、わたしは、きっと煩わしさが勝つと感じたからこうしたのだから。
今溢れる涙がどこまでも自分のためだから今こうしているんだから。
どんな時でも駆けつけて手を温めて、お茶を淹れてあげることをしなくていい代わりに、
その恩恵を受けられないことも受け入れなくてはいけない。

友達と朝から美味しい紅茶を飲んで、好きなお店をいっしょに歩いて
好きな時間にお昼を食べ、お家に招いて過ごした翌日でもこんなにも寂しいとしたら、
そうだ、たとえ大好きなひとといっしょに暮していても、寂しい日はあるんだ。

両親とかわいい犬たちと食らすあの子も、
かわいくてやんちゃな娘たちと暮らす彼女も、
困った夫との暮らしを解消しようとしているあの人も、
それからかわいい息子たちと暮らすわたしの弟も、
それでも苦しみや寂しさから一生逃れられるわけではないんだ。

わたしはあのとき、わたしの正解を選んだ。
くるしい、しにたい。誰にも会いたくないし、だれともしゃべりたくない。
それなのに、鳴った電話を無視できずに仕事の話をできるわたしはきっと大丈夫だ。
美しさも若さも失っても、ともだちがいて、そしてそのともだちもいつか失っても。
生きていくしかないのなら、それなら。

いつでも終わりにできる、養うもののいない命をかかえて生きている。
わたしが死んでも、悲しむひとはいても、生きていけなくなるひとは、いない。
その気軽さと寂しさを両方以て生きていくしか。

共に生きていこう、ってともだちが言った。だけどわたしたちは別々に生きている。
それでいい。別々に、いっしょに生きている。
救われない、救えない、だけど時々手をとりあう。
誰か他人をうらやましいと思う気持ちはやっぱりなくて、
「選ばなかった自分の人生」をうらやましいとかそんな風に時々思ってしまう。

だけど、それも完璧じゃない人生と知っていて、
手を取り合うふたりの中にも苦しさがあるとわかっていて、
それでも時々自分の手を自分であたためる事に飽きてしまったと感じるときがあって、
でもそれは支え”合い”たいとかそういう気持ちより、
だれかにどっぷり甘えてもう自分ではなんにもしなくてよくなればいいのに、
とか、そんな気持ちなんだ。そんなのはありえない人生だ。

紅茶を淹れよう。悲しみとかよどみで溶かした午前中を立て直そう。
だいじな友達と一緒に買った紅茶を淹れて、慣れた味のサンドイッチを食べよう。
ぜんぶ、自分で。